健常が溶ける

2019年04月18日

4月。またひとつ歳を重ねた。

子曰く、五十にして天命を知る。

 

歳を重ねるごとに手放すことも増えているような感覚がある。

それは物理的に手放す必要があったことも多いのだが、「せねば」というような

執着が強い私にはありがたいことだったのだろうと今になってようやく理解しつつある。

また、それによって少ない時間の中で自分がやることが明確にもなっている。

 

周りの人々に委ねることによってもたらされることも少なからず増えているから、

手放すことで得られることもあるのだと実感している。

 

社員さんとの談笑中にその実感は突如としてやってくる。そのひとつを。

ある社員さんが友人たちと談笑中の出来事。

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現在彼は自分の部署の改革を自己意識を高めながら自発的に行っている。

自分と同僚の経費分は利益を上げ続けたいと営業に改善に取り組んでいる。

残業もできるだけ減らし経費も削減。それを聞いた友人は、

「なにやってるんだよ。お前はサラリーマンだろ?」

 

また、社内には知的に障がいを持った方も共に働いており、

最近彼は溢れ出る感情を文字にしてくれる。その文字は特徴的でユニークである。

私も含め彼にもそれは一種のアートにも見えていた。それを見た友人は、

「なにこの文字?」

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その時彼は自分と一般的(普通)な感覚が乖離していることに衝撃を受けたらしい。

それも自分が知らず知らずのうちに。

 

 

 

普通や健常という概念が社員さんたちの中で溶け始めている。

と感じ、正直嬉しかった。

 

組織は「皆それぞれに在る」という感覚に向かっているような気がした。

 

私が経営を通して出来ることは、私たち自身にこびりついている健常(そもそも常に健やかではない)というものを溶かしてしまうことなのかもしれない。

 

皆が安心し内なる自己を発揮できる場であれば、それは創造的な環境であると信じている。

 

新結合(イノベーション)の種は、私が手放すことで初めて得ることができることも多いのだろう。

 

その種は大切に育てていきたい。

 

内なる発信なのでやはりアートだと思う