本音のね~(根)

2019年09月09日

日曜日の朝。

のんびりと朝の報道番組を聴いていた。

 

国と国との。人と人との。分断をあおるような報道や投稿に対する懸念。

親と子の痛ましい事件などが流れていた。

 

他者の悪口などの「本音」を言い、分断をあおるようなメディアはどうなのか?

「本音」を言う大人が、正義を語る人としてもてはやされることが良いのか?

分断をあおり注目を集め、人々の「本音」をつき、これを営利目的とした炎上商法はどうなのか?

 

など社会としての「本音」と建前。。というような話も出ていた。

 

本音とは何なのか?という引っかかりを覚える。

 

この表面だけの感情を「本音」と皆は言う。

この「本音」を言おうか?言わないか?という葛藤もあるのだと。

言うことをはばかれる怒りみたいなものを「本音」というの?

これもまた表面だけの行為ではないか。

 

なぜそんなに自分や他者に怒れるのか。

なぜそんなに自分や他者を許せないのか。

 

自分の中のもうひとつ深いところに感情・感覚の源泉はあると思う。

 

自分の内側に向き合う。

 

恐れずに自分自身を内観すれば、そこには怒りとは違う自分の感情や感覚に出会える気がする。

 

そんな自分に出会い、許すところから始めたい。

自分を芯の感覚を許せなければ、他者など許せるはずがないのだから。

 

 

 

紙粘土を積み上げ、コーヒーを上から注ぐ斬新さ!

長男の内なる感覚にいつも救われる