相対
2017年10月23日
生と死は相対。
そもそも生まれなければ、死なない。
10年来の友人の訃報をきいた。交通事故らしいが、まだ33歳であった。
友人の死に直面し、何のために生きるのかを少し回想してみた。
人は生を受けてから「死」に向かっていくのだが、この間にはいくらかの時間がある。
このいくらかの時間は何のためにあるのだろうか。
自分自身が存在する限り、相対する人やものがある。
地面や空、右・左も自己の存在があるから相対的に存在する。
その中で私たちは生かされている。
自分の相対する人・ものなどには網目のように絡み合ったまた別の「相対」が絡み合っている。
いわば、別の人と人、ものともの、人とものが張り巡らされて繋がっているようだ。
そう思ったとき、人は有限な時間を何のために使っていくのか?
網目の中の自己を電気や空気のように伝搬しあえる「つながり」を持ったとき、この「生」のもつ意味が少し感じられる気がする。